INICIAR SESIÓN二週間は、あっという間に過ぎた。
透は、神谷に言われた通り、一時間ごとに遠くを見るように心がけた。 あの小さな公園にも、何度か足を運んだ。 木の芽は少しずつ大きくなり、葉が開き始めていた。 それを見るのが、透にとって小さな楽しみになっていた。 でも、目の症状は完全には良くならなかった。 むしろ、仕事が立て込んだ週の後半は、また視界が歪むことが増えた。 (やっぱり、ちゃんと診てもらわないと) 透は予約を入れた日を確認した。 金曜日の午後六時。仕事を少し早めに切り上げれば、間に合う。 その日は、朝から雨だった。 「朝倉さん、今日は早めに上がるんだっけ?」 昼過ぎ、田中が声をかけてきた。 「はい、病院の予約があって」 「そっか。気をつけてね」 「ありがとうございます」 透は笑顔で答え、仕事を進めた。 五時半、透はデスクを片付け始めた。 窓の外は、まだ雨が降り続いていた。 傘を持ってきてよかった、と思いながら、透はオフィスを出た。 クリニックに着いたのは、予約の十分前だった。 受付を済ませ、透は待合室の椅子に座った。 雨で濡れたコートが、少し重い。 透は、スマホを取り出してメールをチェックした。 でも、なぜか集中できなかった。 (また、あの先生に診てもらうんだ) そう思うと、妙に緊張した。 診察自体は何でもない。ただ目を診てもらうだけ。 なのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。 「朝倉透さん」 名前を呼ばれ、透は顔を上げた。 看護師に案内され、診察室へ。 ドアを開けると、神谷が椅子に座っていた。 「どうぞ」 神谷は、変わらず淡々とした声で言った。 透は椅子に座り、神谷と向かい合った。 「前回から二週間ですね。その後、症状はどうですか?」 「少し良くなった気がしますが……やっぱり、疲れると歪んで見えることがあります」 「なるほど」 神谷は頷き、カルテに目を落とした。 「目薬は、ちゃんと使っていますか?」 「はい」 「一時間ごとに休憩は?」 「……できるだけ」 透は正直に答えた。 神谷は顔を上げ、透を見た。 その視線は、前回と同じように静かで、でもどこか透を見透かすようで。 透は、また視線を逸らしかけた。 でも、今度は逸らさなかった。 (逃げたら、また同じだ) そう自分に言い聞かせて、透は神谷の瞳を見つめた。 神谷は少し驚いたような顔をした──気がした。 でも、すぐにいつもの表情に戻った。 「では、診ますね」 神谷はペンライトを手に取り、透に近づいた。 光が瞳に当たる。 透は、今度はまばたきをせずに耐えた。 神谷の顔が近い。 白衣の匂いと、かすかに石鹸のような香りがした。 「……右目、はい。左目も」 神谷の声が、すぐそばで聞こえる。 透は、神谷の瞳を見た。 グレーがかった茶色。 前回は冷たく感じたけれど、今はそうでもない。 むしろ、どこか温かい──そんな気がした。 「はい、ありがとうございます」 神谷が離れ、透は息をついた。 緊張で、無意識に息を止めていたらしい。 「次に、細隙灯で診ます」 また、あの機械に顔を固定する。 レンズ越しに、神谷の顔が見える。 「こちらを見てください」 透は、神谷の瞳を見つめた。 今度は、逃げなかった。 神谷は、透の瞳を観察している。 でも、それは単なる診察ではないような──そんな錯覚を、透は覚えた。 (この人は、何を見ているんだろう) 透がそう思った瞬間、神谷の視線が一瞬だけ揺れた。 まるで、透の考えを読んだかのように。 「……はい、終わりました」 神谷が離れ、透も顔を上げた。 ふたりの間に、短い沈黙が流れた。 神谷は、カルテに視線を戻した。 「症状は改善傾向ですが、まだ完全ではありませんね。もう一週間、同じ治療を続けましょう」 「はい」 「それと……」 神谷は、ペンを置いて透を見た。 「無理をしすぎないでください」 「……え?」 「目の疲れは、心の疲れでもあります。体を休めることも大切ですが、心も休めてください」 神谷の声は、いつもと同じように静かだった。 でも、そこには確かに、気遣いのようなものがあった。 透は、何と答えればいいのか分からなかった。 「……ありがとうございます」 そう言うのが精一杯だった。 神谷は小さく頷き、処方箋を書き始めた。 「では、また一週間後に」 「はい」 透は立ち上がり、診察室を出た。 廊下に出ると、透は胸に手を当てた。 心臓が、少し早く打っていた。 (なんだ、これ) 透は、自分の反応に戸惑った。 ただの診察なのに。 ただの医者と患者の関係なのに。 どうして、こんなに動揺しているんだろう。 会計を済ませ、透はクリニックを出た。 外は、まだ雨が降っていた。 透は傘を開き、駅へ向かって歩き始めた。 雨音が、アスファルトに響く。 透は、さっきの診察のことを考えていた。 神谷の言葉。 「心も休めてください」 あれは、ただの社交辞令だろうか。 それとも── 透の思考は、そこで止まった。 (考えすぎだ) 透は首を振り、歩みを早めた。 でも、心の中で、何かが変わり始めているのを感じていた。 その夜、神谷は自宅のキッチンで、簡単な夕食を作っていた。 パスタを茹で、市販のソースを温める。 いつもと変わらない、簡素な夕食。 でも、今夜は少しだけ、手が止まることが多かった。 (なんで、あんなことを言ったんだろう) 神谷は、自分の言動を振り返っていた。 「心も休めてください」 あれは、医師として当然のアドバイスだ。 でも、神谷はあの言葉を、もっと個人的な意味で伝えていた。 朝倉透という人間に対して。 患者としてではなく、ひとりの人間として。 (……良くない) 神谷は、パスタを皿に盛った。 医師と患者の関係は、あくまでプロフェッショナルであるべきだ。 個人的な感情を持ち込むべきではない。 それは、神谷が自分に課してきたルールだった。 でも。 今日、朝倉が自分の瞳をまっすぐ見たとき。 神谷は、心臓が少しだけ早く打つのを感じた。 あの人は、前回と違っていた。 視線を逸らさなかった。 まるで、何かを決意したかのように。 (何を、決意したんだろう) 神谷は、フォークを手に取った。 でも、食欲はあまりなかった。 窓の外では、雨が降り続いていた。 神谷は、その音を聞きながら、ぼんやりとパスタを口に運んだ。 (また、来週会う) そう思うと、不思議と胸が温かくなった。 それが、期待なのか、不安なのか。 神谷には、まだ分からなかった。 同じ雨の夜。 透は、自分のアパートのベッドに横になっていた。 天井を見つめながら、透は考えていた。 神谷のこと。 あの静かな瞳。 あの、感情を表に出さない話し方。 でも、確かにそこにある優しさ。 (俺、なんであの人のことばかり考えてるんだろう) 透は、枕に顔を埋めた。 こんなこと、初めてだった。 誰かのことを、こんなふうに考え続けるなんて。 それが、医者と患者という関係だから余計に混乱する。 (次、会うのは一週間後) 透は目を閉じた。 一週間が、長く感じられた。 でも同時に、また会えることが嬉しかった。 その矛盾した気持ちに、透は戸惑っていた。 雨音が、窓を叩く。 透は、その音を聞きながら、眠りについた。 夢の中で、透は誰かの瞳を見つめていた。 グレーがかった茶色の、静かな瞳を。三年後──春の陽射しが差し込むカフェ。透と神谷は、窓際の席に座っていた。「ここ、本当に久しぶりだね」透がカフェラテを一口飲みながら言った。神谷も周囲を見渡して、懐かしそうに微笑んだ。「ああ。最初に、医師と患者以外の関係で話したのが、ここだった」「神谷さん、あの時すごく驚いた顔してたよね」「そうだったか?」「うん。『こんなところで会うとは』って顔してた」神谷は少し照れくさそうに笑った。「確かに、驚いた。偶然だと思っていたから」「俺も」透は窓の外を見た。「でも、今思えば、あれは偶然じゃなかったのかもしれない」「運命、とでも?」「うん」透は神谷を見つめた。「運命だったんだと思う」神谷の目が、優しく細められた。「……俺もそう思う」ふたりは、しばらく静かにコーヒーを楽しんだ。カフェには、穏やかな音楽が流れている。平日の午後、客はまばらで、ゆったりとした時間が流れていた。「そういえば」神谷がふと思い出したように言った。「透、今日は仕事休みだったのか?」「うん。有給取ったんだ」「何か特別な用事でも?」
◆春 桜の花びらが舞う、三月の午後。 透と神谷は、あの小さな公園を訪れていた。 出会ってから、もう二年が経とうとしていた。 「ここ、久しぶりだね」 透がベンチに座りながら言った。神谷も隣に腰を下ろす。 「そうだな。最後に来たのは……いつだったか」 「去年の夏だったかな」 透は空を見上げた。 「あの時は、すごく暑かったよね」 神谷は微笑んだ。 「透が、アイスを三本も食べた日だ」 「神谷さんだって二本食べたじゃん」 ふたりは笑い合った。 公園の桜は、満開だった。風が吹くたびに、花びらが舞い散る。 透は一枚の花びらを手のひらで受け止めた。 「綺麗だな」 「ああ」 神谷は透の横顔を見つめていた。桜色の光に照らされた透の顔は、穏やかで、幸せそうだった。 「透」 「ん?」 「今、幸せか?」 透は神谷を見て、少し驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくりと笑った。 「うん。すごく」 神谷の表情が
同棲を始めて半年が過ぎた、秋の夜だった。透がキッチンで夕食の準備をしていると、リビングから神谷の声が聞こえた。「透、ちょっといいか」いつもより少し、硬い声だった。透は手を拭いてリビングに戻ると、神谷がソファに座って、何かのパンフレットを手にしていた。「どうしたの?」透が隣に座ると、神谷は少し躊躇うように視線を落としてから、パンフレットを差し出した。「パートナーシップ制度について」表紙にそう書かれた、市区町村が発行している案内だった。「これ……」透の声が、少し震えた。神谷は透の横顔を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。「この前、クリニックの患者さんで、パートナーシップ証明書を持っている方がいたんだ。ふたりで受診に来られて、とても自然に、お互いを支え合っていた」神谷の声は、静かで、でも確かな意志を含んでいた。「それを見て……俺も、透と、そういう関係でいたいと思った」透はパンフレットを手に取り、ページをめくった。パートナーシップ制度の説明、申請方法、必要な書類。活字が、透の視界に入ってくる。「法的な効力は限られているけど」神谷が続けた。「病院での面会や、賃貸契約での同居人証明、いろいろな場面で、ふたりの関係を証明できる」透は、パンフレットを握りしめた。「……神谷さん」「嫌なら、無理にとは言わない。ただ、俺は――」「嫌なわけない」
八月。 夏の暑さが、東京を包んでいた。 透と神谷は、それぞれの仕事で忙しい日々を送っていた。 ある週末の朝。 透は、珍しく早く目が覚めた。 隣で、神谷がまだ眠っていた。 穏やかな寝顔。 透は、その顔をじっと見つめた。 (この人と出会って、もうすぐ二年になる) 透は、そう思った。 あの日、眼科を受診したことから、すべてが始まった。 視線を逸らしていた自分。 本当の自分を隠していた自分。 でも、神谷と出会って、変わった。 透は、そっとベッドを出た。 キッチンへ行き、コーヒーを淹れる。 リビングに戻ると、神谷が起きていた。 「おはようございます」 神谷が、眠そうに言った。 「おはようございます」 透は、コーヒーカップを差し出した。 「ありがとう」 神谷は、カップを受け取った。 ふたりは、ソファに並んで座った。 「朝倉さん」 神谷が、コーヒー
七月の第一土曜日。 佐藤と美咲の結婚式の日がやってきた。 透と神谷は、朝から準備をしていた。 「このネクタイ、どうでしょうか?」 神谷が、鏡の前で聞いた。 「いいと思います」 透は、自分のスーツを着ながら答えた。 「先生、似合ってますよ」 「ありがとう」 神谷は、少し照れた。 「あなたも、素敵です」 ふたりは、鏡の前に並んだ。 スーツ姿のふたり。 「緊張しますね」 神谷が、言った。 「はい」 透も、頷いた。 「でも、楽しみです」 「公の場で、カップルとして出席するのは……」 神谷の声が、少し震えた。 「初めてですね」 透は、神谷の手を取った。 「大丈夫ですよ」 透は、微笑んだ。 「佐藤の友達は、みんないい人たちです」 「はい……」 神谷は、深呼吸をした。
五月に入った。 新緑の季節。 透と神谷の生活は、相変わらず穏やかだった。 でも、神谷の中には、ひとつの決断が芽生えていた。 ある夜、神谷は遅く帰ってきた。 「ただいま」 神谷の声は、少し疲れていた。 「おかえりなさい」 透は、キッチンから顔を出した。 「遅かったですね。大丈夫ですか?」 「はい……」 神谷は、ソファに座り込んだ。 透は、神谷の隣に座った。 「何かあったんですか?」 神谷は、少し迷うような顔をした。 そして、口を開いた。 「実は……榎本院長から、話があって」 「どんな話ですか?」 「新しいクリニックを、もうひとつ開きたいと」 神谷は、透を見た。 「そこの、院長になってほしいと言われました」 透の目が、大きく見開かれた。 「院長……?」 「はい」 神谷は、頷いた。 「僕に、任せたいと」







